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アッラーについての誤解

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Noon.pen @Noonoon · Jun 28, 2024 · edited: Mar 17, 2025

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

アッラーについての誤解

  1. アッラーについての誤解 (上)
  2. アッラーについての誤解 (中): 唯一無二なる御方アッラー

   3.アッラーについての誤解(下):月の神

4_ 運命を信じることは

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唯一なる真実の神とは何者なのか。

 

アッラーについての誤解(上):

 

アッ ラーは神なのかscreenshot_20240613_171351_onedrive.jpg

 

そう、アッラーは神なのです。アッラーは唯一無 二の存在です。アッラーはユダヤ教とキリスト教 の双方において崇拝されている同一の神であり、 そう認められています。歴史を通し、世界中のあ らゆる信仰を持つ人々は、神もしくは宇宙の創造 主である究極の神格者へと立ち帰ってきました。 かれはアッラーであり、アッラーは神なのです。 神とは創造主で、供給者のことです。 神という言葉は、言語によって綴りや発音などが 異なります。フランス語ではDieu、スペイン語で はDios、中国語ではShangdiとなります。アラビ ア語でアッラーは、あらゆる服従と崇拝に値す。 る、唯一なる真実の神を意味します。聖書の章句 においても唯一なる真実の神は言及されているた め、ユダヤ人とキリスト教徒のアラブ人も神のこ とをアッラーとして言及します。 “聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主 である。

” (申命記6:4、マルコ12:29) 3大一神教

(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)

 において、神とアッラーは同一の存在となりま す。しかしながら、

「アッラーは神なのか」とい う質問においては、「アッラーではないのは何な のか」ということを理解することも同じように重 要となります

“聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主 である。” (申命記6:4、マルコ12:29)

3大一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム) において、神とアッラーは同一の存在となりま す。しかしながら、「アッラーは神なのか」

とい う質問においては、

「アッラーではないのは何な のか」ということを理解することも同じように重 要となります。

アッラーは人間ではなく、霊妙な魂でもないた め、ムスリムがアッラーについて語るとき、

三位 一体論は無関係です

アッラーは生まれもしなけ ればお生みにもならず、息子や娘などの子を持ち ません。

アッラーには同位者や下役もいないた め、アッラーという概念を部分的に有した神々や 下位の神もありません。

アッラーは被造物の一部 ではなく、

あらゆる人間やすべての物に宿ってい るわけでもないため、アッラーのようになった り、アッラーの性質を宿したりすることは不可能 となります

言え、「かれはアッラー、

唯一なる御方であられ る。

アッラーは、自存され、

御産みなさらない し、

御産れになられたのではない、かれに比べ得 る、

何ものもない。

(クルアーン112) 

神による人類への導きの書であるクルアーンは、 アラビア語で啓示されました。それゆえ、非アラ ビア語話者は術語や名称において混乱する場合が あります。ムスリムがアッラーという言葉を使え ば、それは神のことを語っているのです。神は究 極の存在であり、この上なく素晴らしい存在であ り、全能者であり、あらゆる存在を創造した御方 なのです。 “かれは真理によって、天と地を創造なされたので ある。かれはかれらが同等に配するものの上に高 くおられる。” (クルアーン16:3)

 ムスリムは、イスラームが神による人類への最後 のメッセージであること、そして神は預言者モー ゼにトーラーを、預言者イエスに福音を授けたこ とを信じています。ムスリムは、ユダヤ教とキリ スト教が本来の形においては天啓の宗教であるこ とを信じます。事実、イスラームの信仰箇条の一 つとして、すべての啓示された神の書を信じるこ とが含まれています。イスラームの預言者たち は、ユダヤ教・キリスト教と同じ預言者たちが含 まれます。彼らは、

「唯一なる神を認め、崇拝せ よ」

という同一の教えを携えて人々のもとにỈわ たのです

 

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クルアーン

コーラン

“ヤコブが臨終の時、あなたがたは立ち会った か。かれがその子孫に向かって、「わたしが亡き 後、あなたがたは何に仕えるのか。」と言うと、 かれらは、「わたしたちはあなたの神、アブラハ ム、イシュマエル、イサクの神、唯一の神(アッ ラー)に仕えます。かれに、わたしたちは服従、 帰依します。」と言った。” (クルアーン2:133) ムスリムは 神の預言者・使徒たち全員を敬愛し ています。しかしながら、ムスリムはクルアーン だけが、人間によって作り出された概念や偶像崇 拝的な実践とは無縁な神の概念を含んでいると信 じています。 アッラー(神)はクルアーンにおいて、あらゆる 民族に諸使徒を遣わしたことを非常に明確にして います。私たちは彼ら全員の名前や遣わされた時 代を知りませんし、彼ら全員の逸話も知りません が、神は人間をこの世にもたらし、一人ひとりを 放ったらかしにしておくのではないということは 確かです。神の慈悲、愛情、正義、そして真理の 教えは全人類に対してもたらされたのです。 “本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わし て「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と (命じた)

” (クルアーン16:36)

 

 

それぞれの民に対して、使徒が

遣わされたので)ある。

”(クルアーン10:47)

 

数千年に渡って、人類はこの広大な地球で生死の 営みを繰り返してきました。ある女性が創造主を 求めて天を仰いだとき、彼女はアッラーを求めて いるのです。ある男性が慈悲や安堵を求めて両手 に顔をうずめるとき、彼はアッラーを求めている のです。ある子供が恐怖におののき部屋の隅にし ゃがみ込むとき、その心はアッラーを求めていま す。アッラーこそは神なのです。誰かが明るいー 日の始まり、またはひんやりとした爽快な雨、あ るいは木々の間を吹き抜ける心地よい風を感謝す るとき、その人物はアッラー、つまり神に対して 感謝しているのです。 人類は神の純粋性を取り上げ、途方もない妄想や 奇妙な迷信と混同します。神は3つではなく、唯 一です。神には同位者もなければ共同者もいませ ん。神は、その荘厳さと主権において唯一無二で す。神と比べ得るものは何一つなく、神のように なることは不可能です。神はその被造物の一部で もなく、それを超越した存在です。神は始まりで あり、終わりなのです。神はアッラーであり、最 も慈悲深き慈愛に満ちた御方なのです。 “かれに比べられるものは何もない。

” (クルアーン 42:11) ●

かれに比べ得る、何ものもない。

” (クルアーン 112:4)

 “かれは最初の方で、また最後の方で、外に現われ る方でありまた内在なされる方である。かれは凡 ての事物を熟知なされる。” (クルアーン57:3)

 そうです。神はアッラーなのです。

 

アッラーについての誤解(中):唯一無二なる御方アッラー

説明: 神が唯一であるなら、なぜクルアーンでは「わ れら」とされているのでしょうか。

アッラーこそは神です。かれこそ、私たちが必要 とする御方です。かれは、私たちが人生における 奇跡をはっきりと見出したときに感謝する御方で す。アッラーという言葉は、幾層ものを意味を有 しています。それは(全宇宙の主である) 神の御 名であり、イスラーム宗教の基礎でもあります。 かれこそは、あらゆる崇拝に値する御方なので す。

“かれは天と地の創造者であられる。かれには配 偶もないのに、どうして子を持つことが出来よう か。かれは万有を創られた。かれは凡てのことを 知っておられる。それがアッラー、あなたがたの 主である。かれの外に神はないのである。凡ての ものの創造者である。だからかれに仕えなさい。 かれは凡てのことを管理なされる。視覚ではかれ を捉えることはできない。だがかれは視覚そのも のさえ捉える。またかれはすべてのことを熟知さ れ、配慮されておられる。

” (クルアーン) 

 

アラビア語において、神(アッラー)という単語 は、「崇拝されるべき者」を意味する「イラーハ」 という動詞から来ています。それゆえ、アッラー はあらゆる崇拝に値する唯一なる御方を意味する のです。 アッラーは神であり、創造主であり、全世界の供 給者ですが、日本語の「神」という言葉は 「神々」のような複数形となったり「女神」のよ うな女性形にすることができるため、人々の間に 相違や混乱をきたします。しかし、それはアラビ ア語においては当てはまりません。アッラーとい う言葉は独立しており、複数形や性別を持ちませ ん。「かれ」として言及されるのは文法的なもの であり、アッラーが私たちに理解のできる性別や 形をしているということを示唆しているわけでは 全くないのです。アッラーは唯一無二です。アラ ビア語において、かれの御名は変更がきかないの です。アッラーはクルアーンにおいて御自身をこ のように説明しています.

 

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“(ムハンマドよ、)言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」”(クルアーン112)

クルアーンにおけるこの短い章は、「純正章」として知られています。それは僅かな言葉によって、神であるアッラーは唯一であるというイスラームの信仰システムを概括します。かれはその荘厳性において唯一であり、全能性において唯一です。かれには同位者や共同者がありません。神は唯一であるため、永久に存在するのです。一部の人はこう質問するでしょう。「神が唯一であるのなら、どうしてクルアーンでは『われら』という言葉が用いられているのですか?」

 それは高揚と誇張のためです

という使用法、または「尊厳の複数」というものがあります。アラビア語、ヘブライ語、ウルドゥー語にも同様にそうした使用法があります。私たちは王族などの高位身分の一員が、「我々は〜を定める」「我々は〜を認めない」などといった話し方をするのを耳にします。

複数の人々が話していることを意味するのではなく、話者の卓越性、権力、尊厳を示すものです。そうした概念を念頭に置くと、神であるアッラーよりもそうした尊厳の複数形を使用するに値する者はいないことが明らかになります。

三位一体という概念が聖書に登場したのは、西暦200年頃に活躍したテルトゥリアヌスという神学者によってでした。

三位一体主義の教義は、旧約聖書には明確に示されていません。三位一体主義者の中には、この教義はテルトゥリアヌスによって造語され、キリスト教の作家によって明らかにされたものであると認める人もいます。

教会によって発展し、公言された三位一体の教義は、旧約聖書を構成する書物には明示的に含まれていませんが、アリウス派とマケドニア派の論争の結果、2世紀に初めて定式化され、4世紀に最終承認を受けました。


**ニテリアン**

ユニテリアン主義は、三位一体の概念を否定し、代わりに神が単一の存在であると信じるキリスト教の一派です。ユニテリアン教会は、三位一体の教義を否定し、三位一体の信仰を拒否します。

**三位一体**

三位一体とは、父、子、聖霊という3つの位格を持つ1つの神のことです。

**三位一体主義**

三位一体主義は、三位一体の教義を信じるキリスト教の一派です。三位一体主義者は、三位一体の教義は旧約聖書で明確に教えられていると主張しています。しかし、三位一体主義の教義は、後に新約聖書でテルトゥリアヌスによって明らかにされたと主張する学者もいます。

三位一体の正式な教義は、キリスト教の神が実際に誰であり、何であるかを説明するためのいくつかの不適切な試みの結果でした。新聖書辞典のこの入学に注目してください:「『三位一体』という用語は聖書にはそれ自体見られません。 それは2世紀の終わりにテルトゥリアヌスによって初めて使用されました。」

証明テキストが1つでもありません。証明テキストによって、3人の人に存在する神が1人いることを「明確に」述べる節や箇所を意味する場合。

三位一体の教義は、新約聖書完成後に徐々に発展しました。
新約聖書の著者は、初期教会内からさまざまな異端のアイデアと教師が立ち上がり、外から浸透したと予告しました。キリストご自身が、ご自分の追随者たちに警告されました。「だれもあなたを欺かないように注意しなさい。多くの人が私の名によって来るからです-。 . . そして多くの人を欺くでしょう」
歴史的記録によると、イエスと新約聖書の著者が予告したように、初期教会内からさまざまな異端思想や教師が立ち上がり、外から潜入しました。キリストご自身が、ご自分の追随者たちに警告されました。「だれもあなたを欺かないように注意しなさい。多くの人が私の名によって来るからです-。 . . そして多くの人を欺くでしょう」 (マタイ24:4‐5)

私たちは代わりに神の言葉に目を向けるべきです-人間の考えではなく

ハンナ・アル・フダリは, [Hanna al-Khudari ] 教会の歴史で三位一体を最初に表現したのはアンティオキアの司教であり、この表現、つまり三位一体という言葉は、キリスト教の教義の分野、ニカイア公会議で、聖書辞典に記されているように、聖書には三位一体という言葉は記載されていないが、キリスト教徒は聖書から三位一体の証拠を引き合いに出し(理解しようとした)と信じています。
彼らが主張したように、聖書からの証拠は複数形と多数形の言葉で示されました。実際には理解することを意味します。
拡大と拡大の公式。複数形と多数形は例ではありません。
彼らは創世記のテキストを持っています - 「我々のイメージと我々に似せて人を造ろう」
we ordered an appointment, which means... The King ordered... I す t is for exaltation and exaggeration.

...それは高揚と誇張のためです

 

 

英語(欧州言語)の文法には、「君主のWe」という使用法、または「尊厳の複数」というものがあります。アラビア語、ヘブライ語、ウルドゥー語にも同様にそうした使用法があります。私たちは王族などの高位身分の一員が、「我々は〜を定める」「我々は〜を認めない」などといった話し方をするのを耳にします。それは、複数の人々が話していることを意味するのではなく、話者の卓越性、権力、尊厳を示すものです。そうした概念を念頭に置くと、神であるアッラーよりもそうした尊厳の複数形を使用するに値する者はいないことが明らかになります。

 

“(ムハンマドよ、)われらはあなたに、あなたが主の御許しによって、人びとを暗黒から光明に、偉大な讃美すべき方の道に導き出すために啓典を下した。”(クルアーン14:1)

 

“われらはアーダムの子孫を重んじて海陸にかれらを運び、また種々の良い(暮らし向きのための)ものを支給し、またわれらが創造した多くの優れたものの上に、かれらを優越させたのである。”(クルアーン17:70)

 

“われらがもし望むならば、われらはあなたに啓示したもの(クルアーン)を取り上げることも出来る。その時それに就いて、われらに逆らってあなたを弁護する者を見い出さないであろう。”(クルアーン17:86)

 

“人びとよ、あなたがたは復活に就いて疑うのか。われらがあなたがたを創るさいには先ず土から始め・・・”(クルアーン22:5)

13世紀の著名イスラーム学者、イブン・タイミーヤ師はこのように述べています。「アッラーが御自身に言及する際に用いる複数形は、かれに値する敬意と名誉に基づいたものであり、かれの偉大なる美名と特質の数々と、かれの偉大なる軍隊と天使たちの数々に基づいたものなのである。」

 

「われら」を意味する「ナフヌ」という言葉、そして「われらは実に…」を意味する「インナー」は、複数の神々を指し示しているわけでは全くありません。それらは三位一体の概念との関係もないのです。イスラーム宗教の基礎は、その全てが唯一の神の存在と、かれの最後の使徒であるムハンマドの上に成り立っているものなのです

 

“あなたがたの神は唯一の神(アッラー)である。かれの外に神はなく、慈悲あまねく慈愛深き方である。”(クルアーン)(2:163)

 

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アッラーについての誤解(下):月の神

誤った情報を教え込まれた人々は、アッラーは古 代の「月の神」の現代的解釈であるとします。ア ッラーに対するそうした醜悪な解釈には、「預言 者ムハンマド(神の慈悲と祝福あれ)がそうした 神を復活させ、イスラーム宗教における中心とさ せた」という根も葉もない主張がたびたび伴いま す。それは断じて真実とは異なります。アッラー とは唯一無比であり、最も慈悲深き御方です。そ してアッラーとはアブラハムが信じた神であり、 モーゼが信じた神であり、イエスが信じた神なの です。“誠にこれは、真実な物語である。アッラーの外 に神はない。本当にアッラーは偉力ならびなく英 預言者アブラハム以前のアラブ人の宗教について は殆ど知られていません。アラブ人たちが不正に 偶像、天体、木々、石を崇拝していたことはほぼ 間違いありませんし、そしてそれらの偶像には動 物的特徴を持つものすらありました。また、アラ ビア半島で崇拝されていた神々の中には月と関連 付けられる神もありましたが1、他の神々の上位 にその月の神を崇拝したという証拠は何一つ残さ れていません

 

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太陽と月は、神聖な存在として崇拝されるべきものではありません。 それらは、宇宙とそのシステムの理解を助けるための神のしるしです。 聖クルアーン 太陽と月の前の夜と昼の言及は、太陽の隠蔽と夜の月の出現、月の隠蔽と昼間の太陽の出現が、どちらも神でも神の力の対象でもないことを明確に示しています。 どちらも神の律法に従って動く無力で無力な物体です。


これは、多神教の知性が多神教が合理的であることを証明するために一般的に提唱していた哲学に対する答えです。 彼らはこれらの物体に頭を下げず、それらを通して神に頭を下げると言った。 これに対する答えが与えられ、「あなたが本当にアッラーの崇拝者であるならば、これらの仲介者は必要ありません。 直接彼にひれ伏してみまんか。」

本当にあなたがたの主はアッラーであられる。 かれは6日で天と地を創り、それから玉座に座しておられる。 かれは昼の上に夜を覆わせ、夜に昼を慌ただしく相継がしめなされ、また太陽、月、群星を、命に服させられる。 ああ、かれこそは創造し統御される御方ではないか。 万有の主アッラーに祝福あれ。

 

 

その一方で、アラビア半島の全域において、太陽 が女神として崇拝されていた証拠は残されていま す。太陽(シャムス)はアラブ人部族のいくつか によって崇敬され、祠や偶像が設けられていまし た。アブド・シャムス(太陽のしもべ)という名 は、アラビア半島の多くの地域で見出されていま す。北部ではアムリ・シャムス(太陽の男)とい う名が一般的にあり、アブドッ=シャルク(昇り のしもべ)は日の昇りを崇拝していたことの証で す2。 預言者ムハンマドの叔父の一人の名はアブド・シ ャムスでしたし、アブー・フライラという愛称で 知られる、ムスリム第一世代の著名なイスラーム 学者の本名もそうでした。アブー・フライラがイ スラームに改宗した際、預言者ムハンマドは彼の 名をアブドッ=ラフマーン(最も慈悲深き御方の しもべ)と改名させました

 

ムスリムたちは、創造の始まり以来、アッラーが 人類を導き、教えを説くために諸使徒・諸預言者 を遣わしたことを一片の疑いなく信じています。 それゆえ、人類にとっての元来の宗教はアッラー への服従なのです。アラブ人たちも元々アッラー を崇拝していましたが、時間の経過と共に彼らの 崇拝は人の手によって作られた概念や迷信によっ て腐敗していきました。その理由は時間の経過と 共に分からなくなってしまいましたが、おそらく 彼らはノアの民が行っていたような偶像崇拝に陥 ってしまったものと見られています。 預言者ノアの子孫は、アッラーの唯一性を信じる ひとつの共同体だったものの、彼らに混乱と逸脱 が忍び寄りました。誠実な人々は、人々にアッラ ーへの義務を思い起こさせようとしましたが、

間が経つとサタンは人々を堕落させる機会を見出 しました。誠実な人々が死ぬと、サタンは彼らの 業績を記念する彫像を打ち立てるよう人々に囁き かけました

 

人々は公共の場や家々の中に彫像を造り、人々が それらの彫像が造られた理由を忘れてしまうまで サタンは彼らを放っておきました。長年の月日が 流れ、悪賢いサタンは人々の元に戻り、それらの 彫像を直接崇拝するよう唆し始めました。預言者 ムハンマドにまつわる真正の伝承には、以下のよ うな偶像崇拝の起源を要約したものがあります。

 

“それら(偶像)の名は元来、ノアの民の時代の 誠実な人々に由来していたものの、彼らの死後、 サタンは公共の場に偶像を打ち立て、それらの名 によって偶像に呼びかけるよう人々の心に吹き込 んだ。人々はそれに従っ(て偶像を造っ)たが、

 それらの偶像は(それを造った)人々が死に、偶 像の起源がうやむやになるまで人々によって崇拝

されることはなかった。

 

アブラハムの民と彼の息子イシュマエルがアッラ ーの聖殿(カアバ神殿4)を再建した際、アラブ 人の大半は二人に倣って唯一神への崇拝に戻りま したが、時代が下るにつれ、アラブ人たちは再び 偶像崇拝という古い悪習に陥りました。預言者ア ブラハムと預言者ムハンマドの時代の間、アラビ ア半島の宗教は偶像崇拝に牛耳られていたという。 証拠が多く残っており、その事実に疑いようはあ りません

 

それぞれの部族や家庭には刻み込まれた肖像や彫 像があり、またアラブ人たちは、弓矢を使って未 来を占い、偶像の名において動物を犠牲に捧げる 儀式を行っていた占い師を信じていました。ノア の民の主要な偶像の数々は、サウジアラビアの都 市ジェッダ周辺地域に埋蔵されていたのが発見さ れ、アラブの諸部族に分配されたと言われていま す5。預言者ムハンマドがマッカに無血入城した 際、カアバ神殿には360もの偶像が祀られていた とされています。 イスラーム以前のアラビア半島に存在していた偶 像の中でも最もよく知られているものはマナー ト、アッ=ラート、アル=ウッザーです6。それ らの偶像が月の神や月そのものと関連付けられる 根拠は存在しません。アラブ人たちはそれらの偶 像へと崇拝し、神への仲裁を呼びかけていまし た。アッラーはこうした偶像崇拝を非難していま す。

あなたがたは、アッ=ラートとアル=ウッザーを(何であると)考えるか。それから第3番目のマナートを。あなたがたには男子があり、かれには女子があるというのか。それでは、本当に不当な分け方であろう。それらは、あなたがたや祖先たちが名付けた(只の)名前に過ぎない。アッラーは(どんな)権威をも、それらに下されなかった。かれら(不信心者)は、虚しい臆測や私慾に従っているに過ぎない。既に主からの導きが、かれらに来ているのに。”

クルアーン53:19−23)

偶像崇拝・多神崇拝が蔓延していた中、イスラー ム以前のアラブ人たちが月の神を最高神として呼 びかけていたということばかりか、実際に月の神 に祈願をしたという証拠も残されてはいません。 世代を超えても、彼らは全宇宙の究極なる支配者 に対しての信仰を失うこと(大半の場合はアッラ 一についての誤った概念を抱いてはいたものの) はありませんでした。彼らはアッラーの祝福と懲 罰、そして審判の日を信じていたのです。当時の 詩人も、アッラーについてしばしば言及していま した。 西暦5世紀の著名な詩人であるナビガはこう述べ ています。「私は宣誓の誓いをし、疑念の入り込 む余地を与えなかった。なぜならアッラー以外に 誰が人間を助けるというのか」またズハイル・ブ ン・アビー・サルマはこう述べつつ審判の日への 信仰を確証しています。

「行いは巻物において記 録され、審判の日に提示される。現世においても 復讐をすることはできるのだ。」

クルアーンも同様 に

イスラーム以前のアラブ人たちは神であるア ッラーが唯一であることを知っていたという事実 を証言します

もしあなたがかれらに、

「誰が天と地を創造し、太陽と月を服従させるか。」と問うならば、かれらは必ず「アッラー。」と言うであろう。

それならどうしてかれらは迷い去るか。アッラーは、御自分のしもべの中、御好みの者には糧を豊かに与え、また

(そう望まれる)者には切り詰められる。本当にアッラーは、凡てのことを熟知なされる。もしあなたが、かれらに「誰が天から雨を降らせ、それで、死んでいる大地を甦らせるのか。」と、問うならば、かれらはきっと「アッラー。」と言うであろう。言え、「アッラーを讃えます」。だがかれらの多くは理解しない。

 

神を見ることは可能か?

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一神教 とアリウス

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