──男の話をしよう。
──それは。
──誓いのために生きる男の話だ。
過去のことだ。
それは、10年以上も前──
現在ではマクレガー・メイザースを
名乗る男が、未だ、世界の何たるかを
知らない幼い少年であった頃。
世界は厳然として在り続け、
空を覆う永遠の灰色の意味も知らず
穏やかな暮らしの中にいた頃だ。
純粋にして無垢なこころのままに
明日が永遠に続くと信じていた頃だ。
その少年は
オーストリアに住んでいた。
──其処は、風の吹く故郷ではあった。
蒸気機関の著しい発展によって
欧州すべての空は灰色雲に覆われて、
水は澱み黒ずんで、空気さえ煤混じって。
それでも、前世紀以前の清浄さを
幾らか残している地域だった。
20世紀現在では黄昏と揶揄される
オスマン機関帝国はそれでも在りし日の
強大さの片鱗を残し──
かの帝国は未だオーストリアと
ハンガリーの独立を承認しておらず。
政情で言うならば
ひどく不安定ではあったと言えるものの、
幼い少年の視界に影響がある訳でもない。
辺境と呼んでも差し支えないほどの、
奥深く連なる広大な山嶺の麓に位置する
村で、少年は生まれ育った。
たとえば黄昏の国の護国を司る
《太守の偉大機械 (スルタンマシーン)》の猛威を目にすること
もないし──
遠い異境たるカダスで起きていた
血濡れたベヴェル紛争を知ることもない。
ただ、日々を過ごしていた。
穏やかに。安らかに。
微睡むように
美しいものを目にしていた。
小さな村から見える、排煙汚染の
きわめて薄い山嶺へと続く広大な森。
母を含めた村人から
スミリヤの森と呼ばれるそこは、
彼にとっては絶好の遊び場だった。
少年の家は狩人の家系ではなかったから、
森を自在に歩くことはなかったものの。
森の奥へと続く道を歩くだけでも
多くの場所へ赴くことが出来た。
静寂がそのまま
無数の雫となって溜まりきったような湖。
小さくて可愛くて生意気な
栗鼠たちの巣がある木々。
見ているだけで
吸い込まれそうなほどに深い渓谷。
母から何度も聞かされた
御伽噺 (おとぎばなし) のドラゴンを思わせる滝。
そして、森の奥に
ぽつんと佇む小さなお屋敷──
いつも、森で遊んでいた。
毎日だった。
水辺で泳いだり、
狩りの真似事のつもりで昆虫を捕ったり、
偶然通りすがった鹿の母子を観察したり。
隠れ場所を樹に限定した隠れ鬼をしたり、
ただひたすら森の中を駆けてみたり。
あとは、そう。
お屋敷だ。
森の奥の小さなお屋敷の裏庭に
そっと忍び込んでは、綺麗な服を着た
同年代の女の子と遊んだりもした。
少年は
森のお屋敷が好きだった。
あの、女の子のことも──
──ネオン。
ネオン・スカラ・スミリヤ。
女の子は、森と同じ名前をしていた。
スミリヤの森の、
スミリヤのお屋敷に住む女の子。
どういう理由で村から離れた森の奥に
住んでいるかを少年は知らなかったけれど、
徐々に、幾つかを知るようにはなった。
スミリヤの家系──
村では、お屋敷に暮らす人々は
そういう風に呼ばれていた。
領主という訳ではなく、
代官のようなお役人でもないのに、村の
人々はお屋敷の彼らをひどく敬っていた。
機関工場のひとつもなく産業も碌にない
小さな村に対して、彼らは様々な形での
援助を行っていた──
それを少年が知ったのは、
随分後になってのことだった。
村の規模の割には立派な学校や役場、
教会があるのはスミリヤの人々のお陰。
行商の類が絶えず村を訪れてくれるのも。
オスマン機関帝国から
村と村人たちに課せられたあまりに重い
税の半額以上を負担したという話もある。
領主でも代官でもなく、
けれどもそれら以上に
村の人々に慕われている人々だった。
その頃──
当代のスミリヤは、6名。
先代当主であるネオンの祖母と、
現当主であるネオンの父、母、
姉と兄。それから、ネオン本人。
少年も、初めは何も知らなかったが故に
何を思うこともなかったけれど──
知恵を付けて物事を知るにつれ、
他の村人と同じようにスミリヤの人々に
感謝の念を抱くようになった。敬った。
けれども、ひとつ。
釈然としない想いもあった。
胸の中で確かに育つ、何か、
言いようのない熱のような眩いもの。
スミリヤの他の人々には感じないのに。
不思議と、ネオンに対してのみ。
少年は、確かに、
輝く何かを感じていて──
[Neon] ……それでね。
珍しいことだった。
あの子ネオンのほうから話し掛けてくるのは。
ある日のこと。
森の奥、湖畔のかたわらで。
普段は、学校でもお屋敷の裏庭でも、
こちらから声を掛けることが殆どだった。
だから──
ネオンが名を呼んでくるのは
実に珍しい事態であると断言できた。
何か特別な理由があるのだ。
そう、少年はすぐに理解していた。
湖畔の傍らで──
水面の煌めきを背にして、
ネオンは小さな声で語り始めていた。
幼いながらも
真剣なものを瞳に湛えて。
少年は言葉を受け止める。
ある種の予感、まさしく勘が働いていた。
今、ネオンが自分へと
語り掛ける言葉は──
きっと、自分の今後を
決定し得るものであるに違いない。
いいや、言ってしまえば幼い子供同士の
他愛ない会話には違いない。けれど、
少なくとも少年には、確かに。
黄金の言葉と認識した。
強く。確かに。
認識はひとつの世界となり得る以上、
他愛のなさも論理の破綻なども
さしたる問題ではない。
黄金の言葉。
それを、ネオンはそっと続けた。
[Neon] 絶対、内緒だよ。
他のひとにはぜったい内緒なんだから。
あなたにだけ打ち明ける。
他の誰にも、秘密。
その言葉を
少年は誇りとして受け止めた。
他の誰にも言うものか。
そう、少年は返答した。
[Neon] 誰かに言ったら、絶交だからね。
言わないでね、誰にも。
ネオンとの絶交はいかにも困る。
とても困る。
絶交は困るが、
誰にも言わないと誓ったのだから
絶交になることは有り得ないだろう。
そう、少年は返答した。
[Neon] まだ姉さまにも言ってないの。
ベルタちゃんにも、ジョウお姉ちゃんにも、
エミリーちゃんにも。
[Neon] フロレンス姉さまにも。
まだ、誰にも言ってないの。
[Neon] あたしの秘密、
絶対、守ってくれる?
守ろう。守る。
二度目の言葉で少年は断言した。
[Neon] あたしね……。
普段とは、やはり違う。
強い視線を少年はこの瞬間に記憶する。
もっと、人見知りをして
すぐに視線を逸らす女の子だったのに。
すぐに涙を浮かべるような子だったのに、
そんな気配はまるでなかった。
ああ、そうか、と。
少年は理解する。
スミリヤの家の人々や、そこに集う
人々に触れて少年が変化したように、
きっと、この子も同じく。
変化していたのだ。
少年が、気付かないうちに。
ついこの前まで、
誰かの後ろに隠れるような子だったのに。
こんな風に強くなるとは。
大人たちならこう呼ぶのだろう。
成長しているのだ、と。
[Neon] あたし、決めたの。
決めた、とネオンは言った。
毅然とした声だった。
ならばその「決めたこと」が
ネオンの秘密、ということだろうか。
そう、少年は尋ねた。
[Neon] うん。そう。
決めたことがね、秘密なの。
ネオンが頷く。
少年も頷く。
[Neon] あたしね、先生 (マスター) と……。
[Neon] ずっと、一緒にいたい。
大人になっても。
ああ──
何故、ネオンが強くなったのかを
瞬時に少年は理解してしまっていた。
或いは、ここで理解できていなければ、
今後の彼の人生が大きく変わることは
なかったのかも知れない。
その決意は叶うはずのないものだ、
幼い子供の決意に意味などないよ、と、
軽く肩を竦めることが出来たなら──
この時、そう出来ていたなら、
少年は村人のひとりとして
穏やかな人生を迎えたかも知れない。
けれど、そうはならなかった。
少年も成長していた。
だから、少年は理解してしまった。
だから、少年はこう言った。
ずっと一緒にいたいと言うのなら、
大人になってもと言うのなら、
老いて果てるまでもそう在りたいのか、と。
[Neon] うん、そう。
おばあちゃんになっても。
返答は、まっすぐだった。
眩しいくらいに。
実際のところ、
この時の少年は瞼を細めていた。
[Neon] でもね……。
ふっ、と声の調子が変化する。
眩さが翳 (かげ) る。
今、一際眩く輝いていたはずのネオンは
たちまち表情を曇らせていた。
さほど深刻なものではなく、
僅かな表情の変化ではあったものの、
少年は大いに焦った。
輝きを曇らせてはいけない。
どうしたの、と尋ねてみると
ネオンは首を傾げながらこう言った。
[Neon] どうやったら、先生と
ずっと一緒にいられるんだろう。
確かに。
あの男はすぐに姿を消してしまう。
世界のすべてをいつも旅して回っている
ひとだから、と、以前にネオンの姉君が
語っていたのを少年は記憶していた。
白い服を着た男。
たまに、お屋敷に姿を見せる男。
少女が「先生」と呼び、
自分には一度も見せたことのないような
最高の笑顔を向ける相手。
そして──
愛称ではない、正しい名で少年のことを
呼んでくれる数少ない相手だった。
あの男。先生。
ニコラ・テスラ。
[Neon] 先生、すぐどっか行っちゃう。
お願い、って言っても。
『すべきことがある。
この空に我が名を呼ぶ者があればこそ』
そう、何度か白い男は
少年に説明をしていたものの、
意味はよくわからない。
確固たる信念を持っていることだけは
わかったが、それ以外は何ひとつとして
わからなかった。
[Neon] どうしたら、あたし、
先生と一緒にいられるのかな。
方法は、
思い付かない。
半年ほど以前、あの男の述べる言葉の
ひとつに腹を立てて掴みかかったことが
あったが、軽く片手で──
いいや片手さえ使われることなく、
指の1本がほんの少し動いたかどうかの
直後に少年は宙を舞うことになった。
あの白い男はとんでもない男だ。
まるで、絵本や御伽噺から
出て来たかのようなとんでもない男だ。
そんな男に言うことを聞かせる
なんてことは、どうしても、
出来るとは思えない。
[Neon] 魔法とか……。
使えたらいいのにな……。
なるほど。
そういったものなら。
絵本や御伽噺の中にあるものなら、
それこそ絵本や御伽噺そのもののような
男にも一矢報いてやれるかも知れない。
なるほど、それはいい考えだ。
少年は内心で大きく頷いていた。
[Neon] ……ねえ、マック。
[Neon] 魔法使いって、
どうやったらなれるのかな。
流石に。
それは、突飛に過ぎる質問だった。
なれるはずがない。
そう、言おうとしたはずだったのに。
少年は口にしていた。
──俺がなんとかしてやる、と。
──俺が。
──魔法使いになって何とかする。
[Neon] ほんと?
再び、輝きが満ちていた。
この上ないほどの笑顔がそこには在って。
[Neon] マック、魔法使いになるの?
なれるの?
ネオンは、弾む声でそう言って。
少年は頷いた。
大きく、強く、一度だけ。
なれる訳がない、とは言わなかった。
なると決めた。
この時、この瞬間──
この時、この瞬間。
この少年は人生を決めたのだ。
──魔法使いになる、と。