緑が──
統治会領域には緑が多い。
学園の噂。数多ある統治会にまつわる噂の、
これは事実と合致する数少ない一例である。
都市中央西部、
統治会領域は通常の区域よりも高度がある。
緑多いそこは、時にこうも呼ばれる。
空中庭園、と。
文字通りの空の庭園。空の緑。
外気に露出した部分では
学園都市各地の小公園や大公園と同じく、
幾らかくすんだ植物の緑色。
世界の各大都市に比べれば、
全盛期の瑞々しい緑に近くはある。
それでも、やはり、
灰色がかってくすんでいるのは事実。
けれど──
そうでない場所もある。
特殊な碩学製硝子によって周囲を覆った
環境を完全調整された人工庭園が、ある。
この中の緑色は違う。
根本的に異なっている。
本物の、かつての緑がある。
庭園は本質的に先進的実験施設であり、
碩学製硝子を利用した疑似陽光で
育成される植物も外のものとは大きく異なる。
瑞々しく美しい緑がそこにはある。
かつてのままに。
そして、そのただ中にて。
彼女は多くの時を過ごすという。
彼女──
神学科の5年生女子。
欧州宗教研究会の会長。
博物学の碩学位さえ有しているとか。
学園都市最高の才媛。
通称は“御前の女神”とされる。
10万学生の多くに崇拝される
女子学生統括組織ソロリティの主宰。
フロレンス・アメギノ・ナイチンゲール。
彼女は、ここで──
夜の時を過ごすこともあるとか。
私室が近い、ということもあるのだろう。
植物たちと共に。
彼女は、静寂の夜を過ごす。
微笑みを浮かべて、
穏やかに、誰よりも優しげに──
「……あら、あら」
「おいでいただけるなら、
それなりの歓待もしますのに。
こんな格好でごめんなさい」
「いいえ、迷惑だなんて。
こちらへどうぞ、お茶を淹れますね」
「マスターは煎茶 (センチャ) がお好み?」
「ええ、ちょうど、
ベルタからいただいたものが」
[Nightingale] ──お待たせしました。
成る程。これは──
白の彼は内心で大きく頷く。
美しい。静かな表情が更に引き立てる。
是を指して、女神、などとは
学生たちも実に見事な形容をするものだ。
詩的で、良い。
思えば、学園都市に於ける女子寮の類は
悉くが各地に於ける女神の名を冠している。
この庭園にもそうするべきだろう。
それとも、やはり
庭園のあるじの名のみが相応しいか。
静謐の女神。
御前の女神。
レディ・フロレンス・ナイチンゲール。
[Nightingale] あなたがご存知のものとは
きっと違うと思うのですけれど、
極東風のお茶請けも。
[Nightingale] ええと、小豆を甘く煮た……。
[Tesla] マメアン、か。
傍らの小さな卓へ視線をやる。
ここでは珍しい極東様式の陶器皿の上に
マメアンを餅 (モチ) で包んだ甘味菓子が幾つか。
趣味の良いことだ。
同時に、用意の良さも感嘆する。
深夜来客にもてなしとは。
よほどの勘の良さか、或いは。
[Nightingale] ええ、豆餡というのでしたね。
ネオンも好きでした。
[Tesla] そうだったか。
[Tesla] あれはもっと、甘みの
強烈なものが好みかと思っていたが。
[Nightingale] ゼリービーンズですか?
ああ、それも……。
[Nightingale] あの子、ころころとした
甘いものが好きだったから。
[Tesla] ……なるほど。
流石に、目の付け所が違う。
[Nightingale] そうですよ。覚えて……いいえ、
あなたは覚えていないことはないのですね。
なら、知らずにいたのでしょう。
[Tesla] 無駄に歳を重ねた。
私は、あまりに多くを知らない。
[Tesla] その点、お前は素晴らしい。
若くして知識と思慮に充ちている。
[Tesla] いただこう。
マメアン、初めて口にする。
[Nightingale] いいえ、そんな。
お口に合えば。
[Nightingale] どうぞ、お召し上がりください。
言葉と共に動くものがある。
それは、光と影だ。
彼女自身は何もしていない。
ただ、足下の光と影が、ひとりでに蠢いて
甘味菓子を乗せた陶器と茶碗を運んでくる。
異能で形成した召使い。
見事なものだ。
動じることなく、
彼は光と影へと手を伸ばす。
菓子の甘味を味わい、
茶で喉を潤しながら、
女神と称される彼女の姿を微細に観察する。
実に、夜に映える肢体だった。
夏の空の下で見るのとは異なる感慨がある。
若い瑞々しさと
健やかさ、伸びやかな印象はそのままに。
更に、そこに妖艶さえ帯びて──
[Tesla] ……フロレンス。無論、
夜更けに訪れた私に非がある。
[Tesla] しかしな。
[Nightingale] はい?
[Tesla] …。
視線で告げる。
その格好は、流石に。と。
まさか統治会領域へ忍び込む不審者なども
あるまいが、よもやということも有り得る。
そんな時、悪漢にこれは流石に。
目の毒に過ぎる。
何があってもおかしくはない。
無論、我が身は別の話だが
それはそれ。だ。
[Nightingale] ああ、この格好ですか。
みっともないですよね、すみません。
[Nightingale] 自室だと、ずっとこんな風です。
[Tesla] 目の保養には良い。
お前も、美しく育った。
[Nightingale] あら、ありがとうございます。
ふふ。照れます。
[Tesla] しかし、お前ほどの者なら
着付け (キツケ) など弁えているだろう。
[Tesla] それを──
[Nightingale] ユカタも、本当は
きちんと着ないといけないの、
知っているんですよ。
[Nightingale] ……でも、ナイトガウンのように
ゆったり着るとほっとするんです。
[Tesla] そうか。
美しい──
この年若さでこの妖艶とは。
それを導いたのは己の責ではあるのだから、
彼は、それ以上を口にすることはできない。
言う必要もないだろう。
夏の時のように、再度
余計なことを言うのが落ちだ。
また、あの視線を貰っては敵わない。
服装については口を閉ざそう。
[Nightingale] それで、今夜は?
[Tesla] 質問がひとつ。
お前の異能について、だ。
支配の薔薇を斃してから今に至るまで、
《黒の獣》や《欺瞞の竜》といった
現実ならざる幻想が立て続けに目覚めた。
双方とも対処はしたが、
常に、気には掛かっていた。
彼女の異能──
[Tesla] あれは、現実ではなく
幻想に属するもの。
そうだな?
[Nightingale] ……ええ。そうです。
私の異能アートは《諸神 (アザー)》といいます。
[Tesla] 投影か。
[Nightingale] はい。
[Nightingale] そう呼べるほどに強力なものは
導けませんが、力を集めれば、
一体のそれをかたちとすることはできます。
[Nightingale] ──クリッター。
クリッター。
それは、現実を浸食する幻想の残滓。
ある種の数式によって導かれる、
なり損ないの現象数式体 (クラッキングビーング)。
在ってはならないものだ。
在ればひとを蝕むものだ。
幻想は、最早、かたちを得てはならない。
世界たるこの基底現実は
幻が質量を得て体躯を成すことを許さない。
故に、クリッターは自ずと凶暴さを有する。
自らの身を守るために、
世界を喰らい、浸食していく。
発生の例は極めて少ないが、
実に危険な存在だ。
顕現した場合の威力は、機動要塞級。
事実、《黒の獣》も《欺瞞の竜》も
どちらも暴走し掛けていた──
[Nightingale] わたしの力は、所詮、まがいものです。
諸神たちも、影と光に過ぎない。
[Nightingale] けれど、ひとつのかたちに編み上げた
あの子だけは例外。
クリッターとしての機能を得ます。
[Nightingale] 物理無効 (インビンシブル)、恐慌 (パニック)、などの基本特徴 (スキル) を得て、
あの子は、クリッターとなる。
[Nightingale] ウィル・オ・ウィスプという
ふるき幻想は、偶然……。
[Nightingale] わたしの光と影の異能に合致しました。
それを逆説的に用いているだけなんです。
[Tesla] 理解した。
なるほど、筋は通っている。
[Tesla] いまひとつ尋ねる。
その影の側、黒の王に類するものか。
黒の王。
何とも忌まわしい響きだ。
神のごときわざをもたらす現象数式 (クラッキング) は、
この存在から原理が下賜された、
とするのが《結社》に於ける通説だとか。
言葉にするだけで唇が痺れる。
それは、太古に幻想の諸王を統べたもの。
それは、忘れられた御伽噺 (おとぎばなし) の最果ての城。
城にして王、王にして城。
這い寄る混沌。
暗黒のあるじ。
宇宙空間にたゆたう暗黒物質そのもの。
恐るべきもの、理解せざるもの。
無限の、暗黒宇宙──
[Nightingale] ……はい?
[Nightingale] 黒の王?
[Tesla] 旧 (ふる) くには《蕃神 (そとなるかみ)》とも呼ばれたもの、
黒の王、暗黒の宇宙空間そのもの。
[Tesla] 名は、ニャルラトテップ。
私の敵だ。
[Nightingale] ニャルラ……なんです?
なんでしょう。わかりません……。
[Tesla] ふむ。キザイアの
魔女のわざ (ウィッチクラフト) とは無関係か。
[Nightingale] キザイア先生?
魔女のわざ?
[Nightingale] ふふ。おかしなマスターですね。
なんでしょう、不思議な響きの言葉ばかり。
[Tesla] 知らんか。
[Nightingale] はい?
[Tesla] 黒の王。月の王 (チクタクマン)。
それらの意味するところだ。
[Nightingale] いいえ、黒の王も、月の王も、
わたしは奉じていません。
[Nightingale] だから、ご安心を。
マスター・ニコラ・テスラ。
[Tesla] ん……。
成る程、と。
白の彼は安堵の息を吐く。
嘘を述べる娘ではない。
胸のつかえがひとつ取れた──
[Tesla] どうやら、私の考えすぎだな。
私はすぐに理由ばかりを求めてしまう。
[Tesla] 碩学の癖だ。
許せ、フロレンス。
[Tesla] お前が呼び出すものは、
幻想なりしふるきものとは違うらしい。
[Nightingale] ……ええ。ですから。
[Nightingale] ウィル・オ・ウィスプはクリッター。
ただしく、ふるきものではありません。
幻想は、世界には「なかった」のですから。
[Nightingale] 汽車が走り、
飛行船が空を飛び、電信は行き交い、
システム・ウォレスさえ敷設されます。
[Nightingale] ご心配なく。わたしも、わたしたちも、
幻想の残影クリッターに委ねたりはしません。
[Tesla] ん──
その、言葉は──
[Nightingale] ……マスター?
[Tesla] いや。その言葉、
どうか忘れぬようにと願う。
[Tesla] お前の異能は強力だ。
使い道、決して誤るな。
[Nightingale] はい。肝に銘じます。
[Tesla] ……やれやれ。
[Tesla] 要らぬ世話だったな。
お前が幻想に足を踏み入れたものかと
実のところ、気になっていた。
[Tesla] いいか。決して、
私のようにはなるな。
[Tesla] 幻想なりしもの。
それは、いずれ消え去るべきもの。
[Tesla] そう頭に置いておけ。
無論、この私のこともだ。
[Nightingale] いいえ。それは……。
[Nightingale] あなたのことを、
消え去るべき幻想だとは思いません。
[Nightingale] だって、わたしたちは──
微笑む姿は──
其処には確かな輝きがあって、
彼は思わず目を細めてしまう。
まさしく、それは、女神の微笑みではある。
昔からそうだった。
この娘は、我知らずにこうしてみせる。
己の輝きで、いつも、誰かを照らすのだ。
それが、自身に影差すことになろうとも、
一切の迷いを見せることなく。
この年若さで。
よく、こうもできる。
ここまで──
[Nightingale] わたしたちは、皆、
あなたのことが大好きなんですから。
──その、微笑み。
[Nightingale] わたしも、彼らも。
あの子だって、そう。
──きっと、誰の瞳に映ろうとも。
[Nightingale] ですから、マスター。
あまり、あの子を避けないでください。
──眩い輝きに映るのだろう。
[Nightingale] ……泣かせては、駄目ですよ。
──そう。この、雷電の瞳にさえも。